日々是陽陽 2005年

2005年12月10日土曜日

秋の大作

 季節はすっかり冬。10月の半ばから始まった今年の「秋の大作」の制作はもう丸二ヶ月が経ちます。完成間近な子どももいる一方で大半の子が年を越すことになりそうです。毎年「秋の大作」は時間をかけてじっくり取り組みますが、今年は例年にもましてみんなの力の入った作品になりそうで、今から完成が待ち遠しくてなりません。
 今年の作品は木の板を切って作るパズル。この課題は過去の夏休みの課題として行ったものと同様で、かれこれ18年振り(!)の復活です。作品例として登場したものは、我が家の息子が小学生のときに作ったもの。まずはそれで散々遊んでから、作品の構想に入りました。パズルの図柄のテーマは自由。こういう場合は子ども達の発想の豊かさが本当に良く出ます。今回もみんなの発想には驚かされました。籠に入った様々な野菜、色とりどりの鳥が舞うもの、水族館と見まがう魚たち…、世界遺産を一画面に納めた壮大な作品まで!本当にみんな一生懸命に作っています。完成ももう間もなく。早く家に持ち帰って遊べるといいねぇ。

 …と、実は私はみんなに先んじてパズルで遊んでいるのです。パズルのピースを着色する段階に入ったので、作業終了後、ピースはペンキを乾燥させるためそのままバラバラに置いたままみんなは帰ります。で、乾いた後はひとりアトリエでパズルのはめ込み作業。先生としての役割とはいえ、楽しい作業です。加えてこれが結構難しい!悩みながらも、みんなには悪いけど楽しませてもらってます。ゴメンナサイ!

2005年10月29日土曜日

小さきものを愛でる…

長い間生きていれば自分の性格や好みは大概わかっているつもりである。世の中には何でも大きいものが好きな方もいるが、どちらかといえば私は逆。小さいくてキュッとまとまっているものが結構好みであるらしい。“らしい”というのも無責任な話だが、最近まで自分ではあまり意識していなかった側面なのだ。結果として身の回りにあるものを見渡すとそんな共通項が見受けられる。愛車はローバーのミニ、愛犬はミニチュア・ダックスフント、愛チャリ(?)は無印良品の 20型。長年連れ添った連れ合いも図体はそこそこ大きいものの性格は小さくまとまっている。大きな額のお金にとことん縁がないのも同じ流れかもしれない。とかく私の身の回りには小型のものが溢れ、それはそれで快適に過ごさせてもらっている。

 そんな私の琴線に触れるものを先日発見してしまった。それは…なんとミニショベルカー!我が家に至る路地に最近新築工事が行われているのだが、その現場で発見してしまったのだ。あまりの衝撃に一旦退却し、家人を呼んでいそいそとカメラ片手に現場に舞い戻った。現場のお兄さんにお話を伺う。

 「小さいショベルカーですねぇ。」
 「ええ、人が乗れるのでは最小でしょう。」
 「ちゃんと働くんですか?」
 「(少しムッとして)これ一台で三人分は働く優れものですよ。
  軽トラの荷台にぎりぎり乗るサイズなんです。」

 …なるほど、狭い路地を入るのには小さい方がいいんだ。“ジプタ”みたいだなぁ、と感心(分からない人ゴメンナサイ)。
 
他愛のない会話の後、いよいよ核心に迫ることに。

 「乗せてもらっていいですか?」

 さすがのお兄さんも少しひるんだものの、快く了解してくれた。そこで、記念にパチリッ!



mini

あんなに小さくてかわいいのに、三人分も働くなら我が家にも一台ほしいなぁ。洗濯、掃除に買い物、犬の散歩に夕飯の仕度も任せられるかも…?

2005年10月22日土曜日

灯りの下の主は?

lamp

 夕方になり玄関の灯りをいつものように点けたところ、光源のガラスボールを支えているアームのところになにやら三角の突起が見えた。なんだろうと顔を近づけたがなにもない。それからしばらくは忘れていたが帰宅が遅くなったある晩、アームのところにぴょっこりヤモリが顔をだしていた。三角の突起はヤモリの鼻先だったのだ。うまい所にいるものだ。蛾や羽虫が光のところに集まってくるので居ながらにしてヤモリはご馳走に与れるというわけだ。日中はアームの細長い溝に薄ぺったい身体を押し込めるようにして寝ている。ここはだれにも邪魔をされない彼(彼女?)の空中スイートホームなのだろう。覗き込んだりして失礼!



day

だが、ここのところ朝晩よく冷える。夜にそっと気づかれないように見ていたが、夏のようには虫たちは集まってこない。たまに来ても小さい蛾くらいだった。それでも狙いを定めてすばやく獲物を捕まえていたが、あんな量でお腹が満たされるのだろうかと心配になる。これから冬に向けたくさん蓄えなければならないだろうに、いつまでもそんなところに居ないでもっと実入りいい場所に移ったらと声をかけたが、そっぽを向かれてしまった。

2005年10月9日日曜日

雨の日曜日

 朝、目覚めて思わずブルッと身震いをした。ついこの間まで暑い暑いと言っていたのが嘘のように冷たい雨が降っている。こんな日は買い物にいくのも億劫になるが、私は今日のような冷たい雨が降る日が存外好きだ。思えば雨で外に遊びに行けなくても全然退屈しない子だった。押入れから毛布を引っぱりだして窓際にもっていき、それにくるまって飽かず雨だれを見ていたことを思い出す。誰に邪魔されるでもなく気の済むまで眺めていた。きっとそのまま寝入ってしまったこともあったろう。

 雨の日曜日というと決まって思い出すことがある。それは父がつくってくれた“餃まん”だ。それは“餃子”のように焼いて作る“肉まん”なので“餃まん(ギョウマン)”。父の得意料理だった。なぜかそれを作るのは雨の日曜日と決まっていた。父の「餃まん、作るぞ!」の一言で、私は雨の中を餃まんの材料を買いに行ったものだ。帰ってくれば早速台所に立ち、野菜をみじんに切り具材の用意。その間父は皮の生地をつくる仕度にとりかかる。大きなボールに粉のかたまりを打ちつけ、ほど良い硬さになると布きんをかけてねかせておく。そして私が刻んでおいた野菜とひき肉を混ぜ、味を調えて一旦休憩。生地が良い具合になったところで、いよいよ“餃まん”作りとなる。この作業は父の独壇場だが、私も見よう見真似でつくったりもした(父が作るようには上手くいかなかったが)。全部出来上がると大きな鉄製の平鍋にそれらを並べ、水を張り火をつけて後は出来上がりを待つばかり。その間、母も姉もましてや兄も弟も誰も手伝いには来ない。しかし家中に良い匂いがたちこめる頃になると自然に食卓にみんなが集まってくる。そして出来立ての餃まんをフウフウいいながらみんなで食べた。今にして思えばいつも父とふたりで作っていたことが不思議な気がする。私だけが父親っ子だったのだろうか。

 雨の日は外界から遮断され、その分自分を取り戻せるような気がする。雨音も耳に心地よく心が落ち着く。肌寒くなってきたこの時期の雨が殊に良い。今となってはもう食べることのできないあの餃まんが、寒さとともに思い出されて懐かしい。

2005年9月17日土曜日

四十肩

 友人の息子が、肩が痛くて腕が上がらなくなってしまったので医者に行ったところ四十肩と診断されたという。彼は中学一年生。四十肩などいうものは中高年のものだと思っていただけに驚いてしまった。
 そもそも四十肩とはなに?と調べてみれば、正式には「肩関節周囲炎」という疾患群のことで肩関節の周囲におこる炎症のこととか。肩こりとの違いは、四十肩は炎症で肩こりは筋肉疲労なのだそうだ。私も以前になったことがある(正確には五十肩だが)。腕が後ろに回らず、洋服を着るとき不自由だったことが思い出される。老化現象のひとつということでまわりは心配もしてくれず、いたわりの言葉もなく寂しい思いをした。
 だが、中学生も四十肩になると知り単に老化現象ではないと知った。なにが原因かというと姿勢の問題で、肩を前に出し両腕をだらりと下げたいわゆる猫背がいけない。四十肩になるばかりでなく、頚椎がとびだし頭痛の原因にもなるという。肩をひいて胸を張り正しい姿勢をとる必要があるのだ。だいたい人間が二足歩行になった時から不自然な姿勢になり、あちこちに歪みがでてきてもおかしくないのだからなおさら正しい姿勢が重要…、と先生に懇々と諭されて彼は背筋をしゃんと伸ばして自転車に乗って帰ったそうな。

 翻ってうちの孫娘、実は姿勢が良くない。まさに友人の息子同様、両腕をだらりと前に下げた猫背なのだ。この夏休みに遊びにきた時に気がついた。こんなに姿勢が気になったことはなかったのだから、会わなかったこの半年の間の変化なのだろう。注意するのだがすぐ猫背になってしまう。本人いわく、「この方が楽なんだもの…。」滞在中注意しつづけたが治る気配はない。良い習慣はなかなか付きにくく、悪い習慣はすぐに付くから困ったものだ。
 子育てのときなら有無を言わせずぴしゃりと背をたたいて矯正もしようが、短期滞在の孫に必要以上に小言を言うのも躊躇われる。別に嫌われるのを恐れるわけではないが、費やすエネルギーと効果をはかりにかけてしまうのだろうか。

 小学生の四十肩なんて笑えない、と正すつもりで背に添えようとした右手を静かに下ろしたのは、決して私の肩が痛んだからではない。

2005年8月7日日曜日

ある日曜日

 世間は夏休み真っ只中。斯く言う私もアトリエがないので夏休み。とはいえ平日は自分の仕事をしているし雑用も多いので、まとまった時間はやはり休日にしか取れない。というわけで今日のような日曜日は貴重なのである。

 朝起きて軽く犬の散歩。彼女たちにご飯をあげて、人間の朝食を準備して食べる。食べ終わったら後片付けをして洗濯物を洗濯機にセット。ここまではいつもと変わらない日常。今日はここからがいつもとは違う。日頃外出しない私が町に出て買い物をするのだ!
 連れを伴って電車で渋谷に到着。渋谷にはこのコラムでも触れた作品展前に“塩酸”を買いに来たとき以来!いつも自転車で行ける行動範囲でしか生活していないことを改めて痛感した。

 まず最初の買い物は靴。これは夏休みに入って通いだしたトレーニングジム用のもの。昔ジムに通っていた頃の古い古い靴で代用していたものの、あまりのボロさにさすがの私も恥ずかしくなって買い換えることにしたのだ。最近の、特にスポーツシューズなどに疎い私は、手に取った靴のあまりの軽さに驚く。安かったこともあり即決で購入。幸先の良い滑り出しで荷物を連れに持たせて次の目的地へ行く。
 次の買い物は“つなぎ”。そう、アトリエでのわたしのユニフォームだ。先月まで着用していたものはかれこれ5,6年前に購入したもので生地も薄くなってお尻も継ぎはぎだらけの代物。我ながらよくぞここまで着古したものだと感心するレベル。さすがにこれも先月まででお役御免、夏の工作教室を新品のもので迎えることにしたのだ。最近なかなか“つなぎ”を売っている店はないがそこは若者の街、渋谷。2件目で目指すものをゲット(?)。ブカブカのサイズがいいのでウエスト32インチものを短足仕様に丈直しをしてもらう。
 丈直しの間、次の目的地へ。それはアトリエの卒業生、S子ちゃんが働いている銀と革工芸の店だ。場所は前もってネットで調べておいたものの方向音痴の私は甚だ頼りなく、頼りは連れの嗅覚のみ。折りしも昼過ぎの渋谷は灼熱地獄!日曜日なのに人はそんなに多くない。こんな暑い中をぶらぶら歩く人なんかいないのだ。で、道もすいていて目的地はわりとあっさりと発見できた。汗を拭き拭き飛び込んだお店は涼しくて別天地。古い箪笥を展示棚に用いたり、民家の太い梁をアクセントに置いていたりと作品以外にもオーナーのこだわりが感じられる雰囲気のいいお店。S子ちゃんの入れてくれた冷たいお茶のおいしかったこと(サクランボ茶とのこと、ご馳走様でした!)。オーナーともしばし制作談義に花を咲かせる。エネルギーを回復して、丈直しのつなぎを受け取り次の目的地へ…、のつもりが暑さにやられ空腹にも耐えかねて、残りはどうでも良くなってしまった。結局今回の“遠征”の収穫は靴とつなぎ、そして久々のS子ちゃんということに落ち着いた。次に渋谷に来るのはいつになることやら。

 帰りに四川料理を食した。暑い時には冷たいソーメンもいいが、熱くて辛いものもいい。辛さと香辛料が食欲を刺激し、確かに暑さに勝てそうな気がするから不思議だ。あの暑さのなかぼーっとなりながら歩いていたにも関わらず食欲は衰えずで、少し食べ過ぎたのが想定外。早速トレーニング用の靴にご登場願わなくてはならなくなりそうだ。

2005年8月3日水曜日

看板

 アトリエCOMは路地の奥に位置する。通りからは全くその存在がわからない。だからこれまで生徒さんの多くは口コミで来てくれる方ばかりだった。

 5~6年前通りをはさんで向かいにおおきなマンションができた。若い世帯が多いらしく小さな子もたくさん出入りしている。ある時そのマンションの住人が子どもを連れてアトリエに来てくれた。路地奥に子どもの自転車がたくさん止まっているのが気になり、近所の人に尋ねたところアトリエと聞き確かめに来たという。早速入会してくれた。
 そんなことがあっても路地奥という立地にハンデがあるとは感じていなかった。確かに通りに面していればその存在は行き交う人の目に自然に飛び込み、記憶のなかにも入ってくるだろう。が、路地奥ではそれは全くない。
 ごく最近、看板もださずによく30年近くもアトリエをやっていたことに気がつき、アトリエCOMの存在をもっと世の人に知ってもらおうと思い至った。遅まきながら看板を出そうと決めた。
 そう思って路地の入り口付近を見渡してみるとアパートの壁がいい具合にあるではないか!ここと思い定めて所有者に電話。待つこと一週間で許可された。

 さあ、どんな看板にしようか、早速デザインにかかろう。この夏休み中には看板を掲げたい。夏休み明けに看板をみる子ども達の反応がたのしみだ。そして看板の効果はいかに!?

出来上がった看板!
さっそく壁に設置したけど、
みんな気づいてくれるかな?

2005年7月28日木曜日

親子の関係

ここのところ暑い日が続いているので仕事場のドアは開け放してある。ある日、そのドアの近くでひときわ鳥の鳴き声が響いた。何事かと手を休めて目を上げると天井近くで鳥が羽ばたいているではないか。四十雀だ。身体全体が黄色味を帯びているところをみるとまだ子どものようだ。そうか、家の中に間違えて入ってしまった子どもの身を案じて、親鳥が外で必死に呼んでいたのか。"早く出ていらっしゃい""こっちこっち"と親鳥は声をからして叫んでいる。一方の子どもは親の心配をよそに、結構気ままに仕事場の中を飛び回り、ドア付近に行ってもうまくドアをくぐれずモタモタしている。以前同様に鳩が迷い込んだとき、逃がしてあげようと尾羽を掴んだとたん飛び立ってしまい、尾羽だけが(気の毒にも)そっくり抜けてしまったことがあった。二度とそんな失敗はできないので今回はもっぱら声で追い立てることにした。しばらく右往左往していたが、子ども四十雀はやっとドアをくぐり抜けることができ、待ち構えていた数羽(親、兄弟らしい)とともに飛んでいった。子ども四十雀はちょっとした冒険を満喫できたかもしれないが、親四十雀は寿命の縮まる思いだっただろう。虫をくわえて飛び立った親四十雀は巣に戻って子どもに注意するのだろうか。

 どの世界でも子を思う親の気持ちに変わりはない。が、親が思っているほど子は親のことを思っているとは限らない。我が家のダックスフントの親子にしてもそうだ。寝ている子が夢にうなされていようものなら親はいつまでも心配そうにそばに寄り添っているし、どんなに離れていても子がいつもと違う声をあげると飛んでくる。親が子を思う心は海より深いのだ。だが子のほうはどうだろう。一度などケンカして子が親のお腹に乗り親を押さえ込んでいたことがあった。親は世にも哀れな声をあげてハウスに逃げ込んでいた。考えてみればあの時以来親子の力関係が逆転したのかもしれない。おいしいものをもらえば親の分も横取りしてしまうし、親が夢にうなされていても子は知らんふり。親を思う気持ちなんぞ微塵も感じられない。

 そう考えると最近お会いした親子さんは例外的な存在なのかもしれない。アトリエに相談に見えた親子さんなのだが、お互いに信頼し思いやり、そばにいる私までがなんとも暖かい気持ちにさせられる関係なのだ。息子さんは高校生で美大受験を考えているのだが、親に過度の負担をかけない受験を望み、親はその子の自主性を最大限尊重したいという。子は子の立場で親は親の立場でそれぞれが精一杯がんばるという暗黙の了解が子の自立を促し、子は自立していればこそ親を思いやることができるのだろう。

 鳥には鳥の、犬には犬のそれぞれの思いやりのかたちがあるのだろうが、お互いを思いやることができるのはやはり人間だけなのかもしれない。ましてや今の時代、子が親を思いやることができるなんてやはり随分と高次元のことのように思えてしかたないのである。

2005年7月10日日曜日

お手本

前回に続いて先日の作品展の話題。

 いつもながら作品展には大勢の方が来てくださった。私の友人からアトリエの父兄、アトリエの元生徒の面々まで様々で、それらの方々からいろいろなお話をうかがうことができるのも作品展のおおきな楽しみである。今回も素敵な方とお会いした。

 その方は直接の私の知り合いではないのだが、何回か作品展に来てくださっていたので顔見知りになっていたし、数年前に私のブローチを買ってくださってもいた。その方がそのブローチを最近なくされてしまったとのこと。ブローチをつけていたあたりに手を置いて「このあたりが寂しくてね…」と仰り、新たにもうひとつ作って欲しいと頼まれた。そんな依頼を受けたとなれば作り手冥利につきるというもの。もちろん喜んでその依頼を引き受けた。
 翌日再びその方が会場にみえた。どうしたのかと思っていると、「私、いつ死んでもおかしくない歳だから先に代金をお支払いに来ました。私が死んでもブローチができたら送ってくださいね。娘や嫁、欲しがっている人はたくさんいますから」とカラっと言われた。
 とたんにこの方をとりまくご家族方々の顔が見えるようだった。ご家族はもとより周りの方々の篤い信頼を得ておいでなのだろう、自信にあふれた生き様を感じた。身のこなしが軽やかで話し上手、死後の準備を着々とし亡き後のことまで気配りができるくらいの方のこと、いつもまわりに人の輪ができていることだろう。人を惹きつける魅力のある方とお見受けした。
 それに比べて私など自分のことで手一杯、それに今のことしか考えられない。視野も心もなんと狭いことかと嘆かわしい。こんな私でももっと歳を重ねればあの方のようになれるのか、いや歳とは関係ないだろう。生き方自体の問題だ。考えねば…。

 またひとり人生のお手本としたい方と出会えた。ちなみにこの方のお歳は80歳。20余年の間に何とか少しでも近づきたいものである。

2005年7月1日金曜日

遅ればせながら、お礼と報告

今回も第10回グループ「朶朶」作品展を無事終えることできました。梅雨の最中ゆえ雨は覚悟の上だったのですがお天気にも恵まれ大勢の方にお越しいただけましたこと、深く感謝しております。有難うございました。

 作品展を終えてもう10日程たってしまいました。この10日間はあっという間に過ぎてしまったというのが実感です。作品展の前は制作の追い込みに明け暮れて忙しいのは当たり前。例年作品展の直後は腑抜けのようになってしまい、仕事場にはたっぷりの夏休みを過した後に戻るのが常でした。しかし今年は早くも仕事場に入り、作品展前とは度合いは違うもののしっかりと制作を始めてしまいました。自分でも何かに急かされているかのようで少しおかしく感じるのですが、よい緊張感を持続して今日を迎えています。今は時間の経つのが惜しくてたまらない状態なのです。

 10年前、「朶朶」展を始めるにあたって皆で約束したことは、年一回の開催を10回は続けようということでした。その区切りの10回展を終えた今、初期の目標が達成されたため一応解散と相成りました。なかには制作活動をやめるというメンバーもいますが、私は今作ることが楽しくてしかたなく、またやりたい事もたくさんあるのでやめることなど考えられません。むしろこれを機会に自分なりの作品発表の場を考えていきたい、これを新たな出発としたいと考えるようになりました。

 こう考え出したらいつものように休んでなどいられません。次の展示会はいつにしよう、どんな作品を展開しよう、会場はどこにしよう、などと考え始めたら限がなく、居ても経ってもいられず手を動かし始めました。次なる発表の場に向けての日々が、スタートしているのです。

 10年間「朶朶」を励まし支えてくださった方々、本当に有難うございました。心より御礼申し上げます。
 再び皆様とお会いできることを楽しみにこらからも制作に励んでまいりますので、今後ともよろしくお願いいたします。

2005年5月30日月曜日

塩酸ラプソディー

 ここのところ6月の作品展を控えて制作の日々を過している。
 制作過程で希硫酸や希塩酸を使う。希硫酸は銀の加工工程の途中に、希塩酸は錫の作品の仕上げに使う。どちらも仕事に欠かすことができないものである。
 さて錫の作品が数個出来上がってきたので仕上げに希塩酸に浸けたのだがおもうように仕上がってくれない。酸化膜が取れないのだ。きっと酸の力が弱くなっているのだろうと新しいボトルを探したがもう手元に残っていなかった。以前は歩いて数分のS薬局で手にはいったのだがそのS薬局は5・6年前に店をたたんでいる。その後、少しはなれたところのK薬局で手に入れることができたがそこも3年ほど前に店をたたんでしまった。閉店直前のK薬局で買いだめしておいた塩酸でここ数年仕事をしてきたが、とうとう底をついてしまったのだった。
 そこでハタと困った。ドラッグストアのチェーン店では扱っていないことは知っていた。自転車で近所の薬局という薬局を片っぱしから訊いてまわったがどこも「扱っておりません。」 しからばとインターネットで調べてみると旭硝子で扱っているとあった。早速電話をしたが取引は1トン単位!こちらの必要とする量は500ccのボトル数本。話にならず笑ってしまった。むこうも笑っていた(ようだった)。せっかくインターネットでしらべたのに用をなさずまた足で探す日々にもどってしまった。

 先日渋谷に出たついでに「塩酸」を探し回った。広い渋谷のこと、1軒くらいは扱っている店がありはしないかと期待して昔からある三千里、念のためマツモトキヨシ、コクミン、セイジョウ、東急ハンズ等々尋ね歩いたがやはりいずこも「扱っておりません。」 思いあぐねて交番へ行ったがやはり劇物を扱っているかどうかまでは分からないという。お礼をいって帰ろうとすると、昔からの薬局が一軒残っているからそこで訊いてみたらと教えてくれた。教えられたその店は大きいビルとビルの隙間にあり、気をつけていても見過ごしてしまいそうな店だったが…あった!あった!捜し求めていた塩酸があった!やっと塩酸を手に入れることができた。嬉しくて嬉しくて交番にお礼を言いに行ってしまった。

 考えてみればここ数年、チェーン展開のいわゆるドラッグストアが進出してきて安売りをはじめたため、地元の薬局は太刀打ちできず次々と廃業に追い込まれていった。前述のS薬局もななめ向かいにドラッグストアができたため店をたたんだのだった。品数も豊富で安くて夜遅くまで開いていて…と私自身日頃からドラッグストアを利用していた。それこそ「塩酸」が必要な時だけのS薬局だったのだ。S薬局のおばさんが言っていたことを思い出し、私は自分で自分の首を絞めてしまった感覚にとらわれた。塩酸をはじめ劇物取り扱いは管理が大変な割に儲けが少なく(そうだろう1本315円だもの)みんな扱いたがらないと。そうか、チェーン店はそういった面倒なことはやらないのだ。そういった店ばかりになったら、本当に必要なものが手に入らなくなってしまう。地元の店をみんなで守って育てていかなければならなかったと今更ながら思い至った。

 渋谷のその薬局で「塩酸」を受け取りながら「いつまでもこのお店やっていてくださいね」と思わず店員さんに言ってしまった。
 それにしてもこの店員さん、私のことをどう思ったことだろう。塩酸があると聞いて飛び上がらんばかりに喜んだり、在庫が4本あるといえば4本全部買ってしまうし。そもそも塩酸を買うおばさんって…、決して怪しいものではございません!

2005年5月24日火曜日

作品展の案内

制作にかまけてなかなかコラムが書けない。単細胞人間ゆえあっちもこっちもとはなかなか手が回らない。まだまだ修行が足りない(反省)。

 6月に開催予定のグループ「朶朶」作品展のDMができあがってきた。いよいよ作品展まで一ヶ月足らずとなったのだ。制作にも熱がこもる。

 グループ「朶朶」のメンバーは5人。女性工芸グループ「環」のメンバーでもある。9年前に自由が丘近在同士が声をかけあってできた「環」の分派みたいな存在である。
 当初の開催は2月。第1回などは東京にはめずらしい大雪にみまわれたものだ。この時期は例年すこぶる寒く天候も悪い。そのなかを大勢の人が重装備で足を運んでくれたことは、今思っても感謝に耐えない。
 一方、2月に作品展をするということは準備に最低半年かかることから、冬中制作していることになる。それこそ暮の大掃除もお正月の準備もそこそこに、仕事に明け暮れる日々を強いられる。そのうえ仕事場の夜は寒く何枚セーターを着ても靴下を重ね履きしても指先が悴んでしまうのだった。こんな過酷な条件のなかで5年間もよくやっていたと思う。
 いささか寒さが身にこたえる歳になったか、誰からともなく開催時期変更の希望が出て、第6回目からは陽気のよい5.6月に開催するようにした。
 そして迎える10回目。当初小学1年生だったあるメンバーのお子さんも高校生。子どもの成長は目にみえて変化していくのがわかるが、我々はこの10年でどれほど成長できているのだろうか。

 作品をご覧いただき叱咤激励をいただけたら、と切に願っております。
 ぜひお越しください。お会いできるのを楽しみにしております。




2005年4月15日金曜日

アクシデント!?

 お巡りさんに連れられてきたNちゃんは、私の顔を見るなり大声をあげて泣きじゃくってしまった。目と目が合った瞬間に緊張の糸が切れてしまったのだろう。しばらく背中を擦りながら泣き止むのを待った。

 Nちゃんは新二年生。家が遠くに引っ越してしまったので、学校帰りにアトリエに寄ることになった。先週は初めてということで、母親と一緒に来て一緒に帰った。アトリエに来る道々、親子してバスの路線や降りるバス停の名を繰り返し確認し合ったことだろう。一週間たった今日、一人で緊張しながら来たであろうに、降りるバス停を間違えてしまったのだった。ひとつ手前で降りてしまったらしい。降りたところは見知らぬ場所。さぞびっくりしたことだろう。だが、気を取り直して近くのコンビニから母親に電話をしたという。そこで母親と連絡がとれれば窮地をぬけでることができたであろうに、あいにく母親は不在。頼みの綱がきれてしまった。とたんに恐怖におそわれたことは想像に難くない。しばらくは見覚えのあるところはないかと歩き回ったらしいがとうとう泣きながら交番に駆け込んだという次第。パニック状態に陥っているにもかかわらず、よくぞ交番に行ってくれたと思う。母親と電話がつながらなかった時点で小学二年生は万策尽きて、あとはその場で泣く以外方法はないだろうに…。泣きながらも交番にいくという判断をさせたものはなんだったのか。たかだか7,8年の経験か、家庭教育の賜物か、それとも彼女自身の持って生まれた資質なのか…。あの小さな身体で、全身全霊を使って下した判断の確かさに恐れ入った。

 交番に駆け込んでおかげで、親切なお巡りさんがアトリエまで送ってくれるおまけまでついた。しばらく泣きじゃくっていたNちゃんはハンカチでごしごし顔を拭き、さっぱりした顔で先週の続きの自画像を描きはじめた。まるで何事もなかったかのように。

2005年4月11日月曜日

桜三様

 初桜
 4月のはじめに南房総へ小旅行した。東京アクアラインを快走し木更津から内房沿いに南下、海沿いに桜が咲き始めていた。港に帰ってくる漁船をバックに桜が咲いている様はまるで演歌の世界みたい。おまけに漁船にはカモメが群がって…。少し海からはなれると里山がつづき、水を張った田んぼのむこうの山裾にこれまた桜がぽっぽっと咲き始めている風情。なんとも心地よい景色が続く。花は桜だけではなく、南房総の突端の白浜は一面の花畑。菜の花・ポピー・ストック・金盞花等々、風の匂いが花の匂い。家にこもって仕事をしていた身には一度に春がきた気分になってしまった。




[満開の桜と呑川]

満開
東京の桜が満開となった金曜日、犬の散歩にかこつけて呑川の花見にいった。桜の古木がみごとな枝ぶりを川にさしのばしそれはそれはきれい!道行く人の歩みもゆっくりと時間が止まった様。
 そんな中、ゆっくりではあるが車が入ってくる。花見を楽しんでいるのに無粋なと思いながら目をやると車中にはお年寄りが。おそらく孝行息子が年老いた母親に満開の桜を見せようと連れ出したのだろう。老人ホームの車も入ってきた。中から歓声があがっている。今年も桜を愛でることができた喜びが伝わってくるようだった。老いも若きもみんな桜が好きなのだ。桜が見られる喜びを分かち合えたような気がして今年の桜はいつもよりもっともっときれいだった。

 桜吹雪
 二日後の日曜日、今度はお弁当をもって駒沢公園にお花見へ。どの桜の下も人・ひと・ヒト…。どこでお弁当を広げようか探しあぐねていたが、ようやく絶好のお花見ポイントを発見。公園周遊コースを見下ろす桜の下に落ち着いた。
 折りしも風が強く、向かいの山の桜が風に舞うとこちらの桜も一斉に舞う。前から後ろから、右から左から桜吹雪に包まれる。桜にすべて吸い込まれてしまったか、子どもたちの遊ぶ声も犬の声も遠くに聞こえ、見慣れた風景が一変してしまった。目の前のことがひどく現実離れしてみえる。桜の魔力か、"花の下にて我死なむ…"と思わず口をついてでてきたりして。だが、そんな気持ちなどお構いなしに桜吹雪は止む気配もなくますます降り積もるばかり。我にかえり、帰り支度をはじめれば、お弁当箱・お皿・コップはもとよりポケットの中まで花びらがはいりこんでいた。

 いつもは仕事も生活も一所で済んでしまっている私にとって、この一週間はちょっとした現実逃避。なんか心のお掃除ができたみたいだ。
 心機一転、新年度もがんばりましょう!

2005年3月29日火曜日

お節介なもの

 一週間に一度、生協で食料品を注文する。生協のカタログには食料品のほかにも生活用品、衣料品等載っているので一応目を通すことにしているが、今週も一通り注文用紙を書き終えパラパラとカタログを見ていたら妙なものが目に留まった。はじめは流しの三角コーナーかと思ったがそれより丸味がありちょっと違う。“ハーフストレーナー”と書いてあったので半円形の漉し器だとわかった。うたい文句に“茹で時間の違う素材をひとつの鍋で仕上げます”とある。たとえばもやしを茹でながら麺も茹でれば“もやしラーメン”が瞬時にできるという案配なのだ。笑ってしまった。
その考え方、調理方法は分かるとして、どうしてそこでハーフストレーナーがでてくるのか。わざわざ“ハーフ…”など使わなくてもいつもの丸いストレーナーで十分ではないか。なんだか一見親切そうにみえるがむしろお節介にも思えて笑ってしまったのだった。

 以前、私も家庭用品の商品開発に携わっていた時期があった。市場調査をしてどのあたりの商品の開発が必要か綿密に分析・検討し議論を重ね、それからデザイン作業に入り、試作を繰り返し…、と商品として世に送り出すまで大変な労力を費やしたものだ。「よりよい商品を、より安く、より多くの人に」というコンセプトのもとで開発された商品はちょうど高度経済成長期真っ只中のこととて結構ヒットしたが、こんなに世の中にものが溢れているのにその上にまだものを作る意味があるのかという疑問がいつも心の隅にあった。その当時は若くて上司にもまわりの者にも言えなかったが、今なら「作らないという決断も大切だ」と言える。
 このハーフストレーナーという商品も、利用者(消費者)の声を聞きより便利によりよいものにとの思いで開発されたものだと思うしその大変さも十分わかるが、結果としてどうだろう。「あれば便利」といったコンセプトの道具は買った当座だけ目新しさで使われ、じきに使われなくなってやしまいか。我が家でも、リンゴの芯抜き、レモン一片用の絞り器、玉子の白身・黄身分け器等々、引き出しの奥に仕舞われっ放しのものがたくさんある。メーカーとしては商品を送り出さなくではならないことはよく分かるが、本当に必要かどうか本当に便利なのかどうかよく検討してほしい。ここらでちょっと一休みとはいかないだろうか。

 使う側の私たちは使いまわしのきく道具を頭を使って賢く使いたいものだ、とハーフストレーナーの広告をみて思ったのだった。お節介なものはいらない。

2005年3月11日金曜日

年度末の恒例

 年度末の3月、アトリエの雰囲気はいつもとちょっと違う。どの子もアトリエに入って来ても壁が気になってしかたがない様子。なぜなら壁には「皆勤賞」「精勤賞」各候補者の名前が一覧表で張り出されているからだ。張り出された表に自分の名前を見つけて満足そうな子、友達の名前に驚く子、名前のなかった子のなかには納得できず欠席回数を訊いてきたりする子もいる。まさに悲喜こもごもといったところである。
 ところでこの発表は今の時点では候補にすぎない。名前が載った子も今月の残り数回をちゃんと通わなくては栄誉には与れない。しかしこの数回がなかなか難しい。特に今年はいったん下火になったインフルエンザが再び流行っているらしく、ここに来てダウンする子もいる。熱がでているのに休みたくないと言って親を困らせたりしているらしい。今週も泣く泣く休んだ子がいた。せっかく一年間がんばってきたのにあと数回のところで皆勤をのがしてしまうなんて…、悔しい気持ちはよく分かるし、私も残念。でも無理を押してアトリエに来ても体調を悪化させては元も子もない。そんなときこの「賞」の功罪を考えてしまうのだ。

 「賞」のもともとのきっかけは、アトリエをはじめて2・3年経ったころの3学期最終日に「うちの子はアトリエを一回も休まなかったんですよ」と仰った母親の一言だ。そのころは出欠をそれほど厳密にとっていたわけではなかったので、驚くと同時にとても嬉しく感じ、とっさに手近にあった新しい粘土を感謝のしるしに手渡したのがはじまり。そして、一年間休まずに通うことを励みとしている子がいると知りその努力に報いるための「皆勤賞」を、あと一歩で皆勤を逃してしまった子への「精勤賞」を設けたのだった。だからこれら賞は、子どもたちを駆り立てるためのニンジンではなく、あくまで休まずに来てくれた子どもたちへの私からの感謝の気持ちなのだ。
 以前、アトリエは好きではないけれど皆勤賞をもらいたいから来るといっていた子がいた。それは本末転倒とも思ったが、アトリエに来る動機付けになるならばそれもいいかなと思い直したことがある。実際、そう言いながらその子は皆勤賞を何度ももらい、結局アトリエを好きになって卒業(?)していったのだから。

 今回目前で皆勤賞を逃した子、賞を手にできなかった子、もちろん一回も休まなかった子、みんなアトリエが好きで通って来てくれていると思うと嬉しい。雨の日も風の日も雪の日も通い続け、通い続けようとしてくれたみんなに心より感謝したい。
 3学期もあと1週間で終わる。これ以上インフルエンザにかかる子がでないよう、そしてみんな無事に最終日を迎えこの一年を振り返れるよう、祈っています。

2005年2月28日月曜日

風邪模様

 風邪をひいてしまった。ここ10日あまりで家族が次々風邪をひき、2匹のダックスの片方が体調を崩したあたりで嫌な感じはしていたのだが、とうとう順番が来てしまったようだ。数年来風邪らしい風邪をひいていなかった私にとって、風邪はたとえひいても暖かくして寝ていればいつの間にか治るもの。自分は風邪薬の世話にはならないと信じ込んでいた。しかし今回の風邪はしつこくてなかなか治らない。見かねた家人に「もう年なんだから薬を飲んで治したら」と言われてしまった。失礼な!と思いつつも今回ばかりはそうしようかなと心が動き、40余年ぶりに風邪薬に手を伸ばした。

 巷では例年に比べて遅いこの時期にインフルエンザが流行っているという。学級閉鎖の話題もアトリエの子どもたちからよく聞く。今年は“A香港型”や“A ソ連型”、それに“B型”も流行っているとかで、名前だけ聞いてもなんだか手強そう。それぞれ全く違うのでA型インフルエンザにかかったあとB型インフルエンザにかかることもあるとか、タミフルはA型にはきくがB型にはあまりきかないとかインフルエンザに対する知識はどの子も驚くほど豊富だ。
 「今日、熱があったから幼稚園休んじゃった」とか「学校は休んだけどアトリエは休みたくない」などと言いつつアトリエに来てくれる子がこの時期多い。熱があっても咳がでていてもアトリエに来てくれる熱意はうれしく教師冥利に尽きる。が、こちらも生身の体、うつりはせぬかと気が気ではない。風邪をひいてもアトリエは休むわけにはいかず、気の張る日々が続くことになる。それでも風邪をひいてしまうことがあるのは、いつも子どもたちから元気を分けてもらっているのと同じに風邪ももらってしまう、ということか。

 今回のしつこい風邪はどこから持ち込まれたのだろうか。アトリエか家庭内か…頑固な性質からして我が家の誰かからのような気がするのだが確証は無い 。幸い峠は越えたようで、今週のアトリエは元気に迎えることができそうだ。うがい、手洗いなどでの予防策の必要性を改めて思い知らされた。それにしても久しぶりの風邪薬は…ひたすら苦かった。

2005年2月11日金曜日

なま?

 お天気続きのある日、アトリエに長靴を履いてきた子がいた。こんなにいいお天気なのになぜ長靴?と問う間もなく「先生、ハイ!」と勢いよくビニール袋が差しだされた。中には根っこに土のついた大きな葉っぱの小松菜がたくさん入っていた。今日学校で小松菜とりにいったこと、霜のおりた畑に入るので長靴を履いていったこと等を話してくれた。ありがたく頂戴して隅に置いておいたところ、その子が「先生、みんなで食べよう!」と言うではないか。みんなで食べるって料理する時間なんて無いし…と答えに窮していると、洗ってそのまま生で食べると言う。生で?小松菜を生で食べたことはいままでに経験が無い。
 息子たちが小学生のころ、同じように小松菜とりに行きたくさんの小松菜を持ち帰ってきた。その小松菜でできるだけいろいろな料理を家で作ってもらいなさいという宿題とともに。まず泥だらけの小松菜をきれいに洗いさて料理となったが、お浸し、油いため、味噌汁の具、煮浸しと普段からあまり料理の幅のない私はこの位しか思いつかず往生したものだ。まして小松菜を生で食べるなんて思いもつかなかった。
 近頃は葉であれば白菜でもほうれん草でもなんでも生で食べると友人から聞いたばかりだが、葉に限らず野菜は生食が多くなっているようだ。グルメブームとかで素材を生かした料理とか健康志向の調理法とかいろいろいわれているが、素材そのものを味わうことを覚えたらそんなに手間隙をかける必要がなくなるし調味料を使うことも少なくなり健康にもよさそう。特に最近では“ローフード(生食)”と称して生野菜だけで全ての食生活を過ごしている人もアメリカでは多いらしい。その程度はともかく、素材そのものの味を楽しめればより豊かな食を享受できることは間違いなさそうだ。そこで思い出すのは息子が幼稚園の時、いつも棒状に切った生のピーマンをお弁当にいれてきていた子がいたことだ。ピーマンの嫌いだった息子がおそるおそるおいしいのかと尋ねたところその子は「おいしい!」と言ってぽりぽり食べていたという。幼くして野菜の究極の味を知っていたのか!ずいぶん時代を先取りしていた子だったのかもしれない。その彼はいまどんな味覚をもった大人になっているのかと思うと会ってみたい気がする。

 件の小松菜は早速きれいに土を洗い流され一枚ずつ子ども達に手渡された。私も茎のほうから食べるようにと言われるままにかじってみたところ、小松菜の香りが鼻をつきパリッとした歯ごたえと小松菜特有のぬめりが甘い!葉の方はほろ苦く春先の葉ものそのもの。おかわりの二枚目を食べながらちょっとウサギやニワトリになった気分がしたが彼らはこんなにおいしいものを食べていたのかと妙に感心してしまった。

2005年1月31日月曜日

モチーフ選び

 ようやく新年第一号作品の「冬休み」の絵も完成に近づいてきた。
 まずいつものように絵を描き始める前にモチーフを選ぶためひとりずつ冬休みの話をしてもらった。お餅つき、お節料理のお手伝いをした子もいればスキーや海外旅行に行った子もあって、いつものように子どもの数だけの話がでてくる。いつもと違うのはその中に「炭焼き」をしたという子がいたことだ。
 いままで30年近く毎年子どもたちと冬休みの出来事を話してきたが、炭焼きをしたという子ははじめて。聞けば田舎のおじいちゃんが趣味で炭焼きをやっておりそのお手伝いをしたとのこと。炭焼きの手順や炭焼き小屋の様子を身を乗り出して聞いてしまった。絵はモチーフ次第と常々思っているがこんな新鮮な体験が絵にならない訳がない。早速、彼は焼きあがった炭を取り出すお手伝いの様子を描きはじめた。そして嬉々として描きすすめた絵はいい絵に仕上がった。

 どこの家庭でも子どもにいろいろな事を体験させてやりたい、可能性を試させてやりたいと思っていると思う。だから休みともなると何をさせてやろうか、どこに連れて行こうかと親は頭を悩ませることになるのだが、子どもにとっての楽しさや印象に残るものは大人の親が思うそれとは違うことが多い。せっかく海外に行って名所を巡ったのにホテルのプールが一番の思い出という話はよくあること。まあそれも悪くはないが、もっと他にもあったろうにと思うとなんだかもったいない。
 休み明けの絵にかぎらずモチーフ選びの際には、「どこに行ったか」ではなく「何をしたか」を子どもに問い続けるようにしている。やったことは手が、体が覚えているものだ。家族で行った所で何をしたか、そして何を感じたかを掘り起こして自覚させること。じっくり話を聞いてやっていると自分から答えを導き出してくる。休み明けは特にどこに行ったかが話題の中心になってしまいがちだが、どこにも行かずとも日常の中にモチーフはたくさんあるということを話し合いのなかから見つけ出してもらいたいのだ。怪我をしてどこにも行けなかった子は「松葉杖のお正月」と題した絵をかいてくれた。こんな良い(?)モチーフはめったにない。もちろん他人と違った貴重な体験ができればそれに越したことはないかもしれないが、モチーフはその気になれば日常にごろごろある。自分では変わり映えがなくつまらないと思っていたことが、第三者の目には新鮮に映ることも多くある。それに気づく感性をもっともっと育てていきたいものだ。

 ともあれ「炭焼き」は、おじいちゃんと二人きりで緊張しながらもお手伝いできるうれしさ、炭の匂いや山の様子などまわりのすべてが彼をわくわくさせたに違いない。私もチャンスがあったら体験したいものだ。

2005年1月23日日曜日

伊予柑

 このところやたらと寒い日が続いている。それもその筈、今は一年でもっとも寒いとされる大寒の真っ只中なのだ。そんな中、寒中水泳や寒垢離をする人々をテレビが映し出す。気合もろとも冷たい水に入っていく姿に偉いものだと感心はするが、何でもやりたがり屋の私もさすがにこれだけは挑戦しようとは思わない。寒い時期には温水プールとサウナが一番だ。しかしあと十日ほどで立春、暦の上ではもう春が来る。

 八百屋の店先に苺とならんで伊予柑が並びはじめた。蜜柑、八朔、甘夏、夏みかん等々、果物好きでとりわけ柑橘類が大好きな私は一年中柑橘類を追いかけて飽くことがない。特に伊予柑が出始めるこの時期は、春の訪れが感じられ無性にうれしくなる。春告げ鳥が鶯、春告げ魚が鰆であるように私にとっての“春告げ果物”は伊予柑。太陽のかたまりみたいに丸くて濃いオレンジ色が、冬の間寒さに縮こまっていた心や体を少しずつ柔らかく解きほぐしてくれるように感じられるのだ。

 伊予柑には特別な思いもある。家ではもっぱら蜜柑ばかり食べていた幼い頃、雛祭りにお呼ばれした家でちらし寿司や雛あられとともに出されたのが伊予柑だったのだ。子どもの手にあまる大きな伊予柑を剥くと甘酸っぱい香りが障子越しに射し込んでくる春の日のぬくもりと一緒になって華やかに雛祭りを彩ってくれた。そしてぎっしりと実の詰まった一房一房の美味しかったこと。そのときの友だちの顔は思い出せないが、あの日の伊予柑の色彩は鮮やかに脳裏に思い描くことができる。それ以来雛祭りと伊予柑は私の中ではセットになり、桃の花や菜の花とともに雛祭りにはかかせないものになってしまった。

 寒さの極まるこの時期に一点の明るさをもたらしてくれる伊予柑に一足早く春を感じてしまうが、立春を過ぎても早春譜の歌詞さながらの♪春は名のみの~かぜの寒さや~♪とまだまだ寒い日が続く。せめて伊予柑でも食べて春を待つことにしよう。

2005年1月16日日曜日

それぞれのお正月

 新年最初のアトリエは冬休みの出来事をわれ先に話す子どもたちの声で始まる。
 話題の中心はなんといってもお正月。子ども達にとってのお正月はクリスマスと並ぶ一大イベントなのだ。自宅でのお正月、祖父母宅でのお正月、スキー場でのお正月、はたまた海外でのお正月と、どこで過ごしたかだけでもさまざまな場所があがる。お節料理やお雑煮に話が及ぶとそれこそ家庭の数だけのものがでてくる。伝統的お正月を継承している家庭があるかとおもえば、元旦にお雑煮をたべるだけとか普段と変わらないメニューでという合理的なお正月を送る家庭もあり、これまた様々だ。

 合理的なお正月というと私は姉を思い浮かべる。姉は普段から合理的生活というか無駄のない生活を旨としている人で、それはお正月に関しても例外ではない。お正月用意はいっさいせず暮れからスキーに出掛け、お正月は宿のお節で祝うのを一家の習わしとしていた。お節の残りものをいつまでも食べなくていいし子ども達にも一応お正月を味合わせてあげられる、無駄がなく経済的かつ主婦が楽と良いこと尽くめとのたまう。それに引き比べて妹の私は12月の声を聞くころから掃除の段取りを考え、年の瀬もせまってくるとこんどはお節作りの準備と料理でてんてこ舞い。だから大晦日はいつも紅白歌合戦の最後のほうしか見たことがない。姉のように割り切ってものごとを考えられたら良いのにと思いながらも毎年おなじことを繰り返している。姉妹でも違うものだ。
 50年ほど前は今のように出来合いのお節セットなどなく、どの家庭の主婦もお正月準備で忙しかった。我が家も例外ではなく、母は忙しかった。台所で忙しく立ち働く母のそばにいてお節がつぎつぎと出来ていくのをながめながら、ひとつ料理が仕上がる度にお正月が近づいて来るように思えたあのころ(そういえば私はいつも母のそばにいたが姉はいなかった)。そんな幼いころの全身で感じていたお正月を迎える喜びを子どもにも味わわせたくて、母と同じように私は年の瀬を忙しく送っているのかもしれない。
 が、子どもたちも成人した今、その必要はなくなったはずなのにまだ同じことをしている。ばたばた忙しくしなければお正月が迎えられないと思い込んでいるのは私で、子どものためというより自分のためだったかもしれないと思い至った。やはり姉のような合理的な暮らしは私にはできないということか…

 今年もアトリエの子ども達のたのしそうなスキー場でのお正月、ホテルでのお正月、海外でのお正月をひたすらいいなぁと思いながら聞いている。いつになったらのんびりした年の瀬やお正月が迎えられるようになるのだろうか。私にはまだまだ無理なようだ。

2005年1月7日金曜日

1年のはじまり、10年目のはじまり

 結婚してからこのかた日記をつけている。とはいっても当初はメモ程度の数行のもので、家計簿のわずかのスペースにちょこちょこと書いて済ませていた。このちょこっと日記は10年ほど続いた。日記帳なるものを買ったのはそのあとだ。12、3年続けておなじ日記帳を使っていただろうか。書くスペースがたくさんありそれなりにおもしろかったが、毎日となるとけっこう負担に感じるようになってきた。そこで今度は思い切って10年日記にすることにした。書く量は数行ですむし本棚を占領することもない。今から9年前のことだ。
 10年日記を手にしたときのことは鮮明に覚えている。今まで日記を手にしたときとは違う重さを感じた。もちろん日記帳自体が分厚く大きいこともあるのだが、未知の10年に対する恐れや時の重さだったかもしれない。つややかな表紙にはひとつの皺もなく開くことを拒んでいるようでもあった。10年の間になにかあったらどうしよう、無事に10年間書き続けることができるのだろうか。明日にはなにが起きるかわからないこの世の中で10年先を約束するなんて無謀だ、なんの弾みで買ってしまったのだろう、と手の切れそうな紙をなでながら後悔した。1996年1月1日、新年の抱負をふるえる手で書いた。

 そして今年は10年目。いよいよ10年日記も最後の年になった。
 日記をぱらぱらとめくってみると、そこには9年の歳月がぎっしり詰まっている。アトリエが新しくなったり、家族が増えたり。仲良くなったり喧嘩したりまた仲直りしたり。いつの間にかテニスから水泳になっていたり、俳句を始めたり、と挙げていったらきりがない。つややかだった表紙もだいぶ擦りきれてきて角もまるくなってきた。日記帳の手触りひとつとっても過ぎた時間が感じ取れる。きっと日記帳も言っているだろう、「あなたも歳をとられましたね」と。
 この10年日記の最後をかざるこの年はどんな年になるのだろう。一日一日を良いこと、嬉しいこと、楽しいことで埋めていきたいものだ。

 次も10年日記を買うかどうか。来年のことを言うと鬼に笑われてしまうから言わないことにしよう。

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